哲学の日

 4月27日は「哲学の日」。紀元前399年のこの日、古代ギリシアの哲学者ソクラテス(紀元前469年頃~紀元前399年)が、時の権力者から死刑宣告を受けて、刑の執行として獄中で毒を飲んで亡くなりました。ソクラテスはアテネで活動し、対話的問答を通じて相手にその無知(無知の知)を自覚させようとしたが、アテネ市民には受け入れられなかった。国家の認める神を認めず、新しい神を導き入れ、青年を腐敗させる者として告発され、死刑判決が下されました。弟子たちが脱獄を勧めましたが、「悪法も法である」といって聞き入れず毒を飲んだと言われています。自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、判決に反して亡命するという不正を行うよりも、死を恐れずに殉ずる道を選んだとされています。ソクラテス自身は著述を行っていませんが、その思想は弟子の哲学者プラトンやクセノフォン、アリストテレスなどの著作を通じて知られています。また、ソクラテスの妻であるクサンティッペが悪妻として有名であったことから同日「4月27日」は「悪妻の日」ともなっています。「なぜ」と問い続けながら考えること自体が哲学であり、その知識を体系化していくのですが、すべての常識を疑う対象にしているのも哲学といえます。VUCAといわれる今の時代こそ哲学が必要だと言われています。過去の常識が通用しなくなり、新しいロールモデルを個人が判断し決断しなければならない時代となってきているからです。物事を高いレベルで極めた人には「思考を深めていく力」があります。分野を問わず、哲学という言葉は普遍的に使われており、現代、身近な人でいえば、イチローは野球を通して、稲盛和夫は経営を通して、思考を深める力を極めていき、その結果として常識を打ち破る高いレベルでの実績を残すことができたと言われています。

 哲学と聞くと小難しく、とっつきにくいと感じる方も多いのではないでしょうか。「私とはなにか?」「時間とはなにか?」「愛とはなにか?」「言葉とはなにか?」「生きる意味とはなにか?」などといった哲学的な問いは、普通の人達はそれだけ聞くと面倒くさいと感じてしまいますが、哲学者と呼ばれる人たちは、そうした様々な事柄の「そもそも」をどこまでも考えずにはいられないのです。哲学の本質は問題をとことん考え、そしてちゃんと答え抜くことにあります。絶対の正解がない問題でもできるだけ誰もが納得できるような「共通了解」を見出そうと探求し続けるのです。つまり、世界には絶対に正しいことはなく、人それぞれの見方があります。だからいって「絶対に正しいことなんて何もない」と、私達は問題を済ませよう、先送りしようという傾向があり、「それって人それぞれだよね」で済ませようとしています。しかし、哲学は、それでもなお「ここまでなら誰もが納得できるに違いない」ということを考え抜きます。そして、優れた哲学者たちは、いつでも、もうこれ以上は考えられないというところまで思考を追い詰めて、それを多くの人々の納得へと投げかけてきたのです。私達は、お互いに対話を続けていくうちに納得しあえる部分が出てきます。対話を通して、その本質を深く了解しあえる可能性があります。できるだけ誰もが納得できる本質的な考え方、そうした物事の本質を洞察することこそが、哲学の最大の意義なのです。

 たとえば、人類がただひたすら戦争を繰り返してきた1万年以上にわたって激しい命の奪い合いをどうすればなくすことができるだろうかというのも哲学者たちが何千年も考え続けた問いでした。春秋時代末期の中国の思想家、孔子は人々が己の分を知り「礼」を重んじるなら社会秩序は安定すると考えました。老子は、宇宙調和の原理である「道(タオ)」に従えという「無為自然」の思想を説きました。欧州では、17世紀にトマス・ホッブズが現れ、戦争をなくしたければみんなの合意で最高権力者を作り出し、その人に統治してもらうしかないと訴えました。しかし、権力者が社会を統治すればひとまず戦争はなくなりますが、大多数の人民はただ支配されるだけの自由のない存在になります。この典型が中国、ロシア、北朝鮮なのでしょう。そこでルソーが現れ、みんなの合意によって社会を作ろうと訴え、これが民主主義の土台になりました。ヘーゲルはルソーの思想を受け継ぎ、さらに徹底して考えました。なぜ人間だけが戦争をするのかという問いに対してヘーゲルは人間が「生きたいように生きたい」という欲望、つまり「自由」への欲望を持っているからだと考えました。一方が勝者になり、他方が奴隷になってもそこで戦いが終わることはなく、「自由」に生きたい人間は「自由」を奪われることに我慢ができないから、支配された者は長期的に見れば必ず支配者に対して戦いを挑むことになります。こうして人類は1万年もの間、戦争を繰り返し続けてきたのです。哲学のすごさは、こうして問題の本質を明らかにすることでその問題を克服するための考え方を切り開くことにあります。ヘーゲルの出した答えは、お互いがお互いに相手が対等に「自由」な存在であることを認め合うこと、そのようなルールによって社会をつくっていくこと、おそらくこれ以外に私達が自由に平和に生きる道はないという「自由の相互承認」の原理を説き、これが現代民主主義の根底を支える原理となっているのです。

 今では民主主義社会は当たり前となっていますが、考えてみれば私達人類は1万年も続いた戦争や支配・被支配の歴史から多くを学び、ようやく200年前になってついに誰もができるだけ自由に生きられる社会の在り方を掴んだのです。現代でもテロ、差別、いじめ、ブラック企業の氾濫や格差社会の問題が世界であふれていますが、民主主義をさらに成熟させ、哲学者たちがリレーのように考え合い、育んできた「良い社会」を築いていかなければならないと思います。ソクラテスの時代から、哲学は役に立たないとバカにする人はたくさんいました。しかし、哲学は私達の人生に、ある独特の仕方でとても役荷立ってくれるものだと思います。たとえば、私、愛、恋、生きる意味、などこれらの本質を知ることができたなら、それだけでもすごいことだと思います。たとえば、政治論議は、それぞれがそれぞれの「政治観」をぶつけ合うだけの激しい対立に満ちていますが、もし私達が、その本質について十分な共通理解を持っていれば議論は大分違ってくると思います。その意味でも哲学が「そもそも政治とは何か?」と問うことはとても大事なことです。こうした「そもそも」を考えるための思考法を2500年もの長きにわたって磨き上げてきたものこそが哲学なのです。だから、私達がその哲学的思考法を身に着けているといないとでは、思考の深さと強さにおいて圧倒的な隔たりが出てきます。哲学の日には、どうすれば物事の本質を見抜くことができるか、絶対の正解のない問題に誰もが納得できる答えをどうすれば見つけ出していけるのか、考え方の奥義を哲学から身近な問題から学ぶのが良いでしょうね。たとえば、自身のキャリアに対し、あなたは全く迷いがない状態でしょうか?「この仕事を一生続けていくのか?」「なぜこの仕事を続けているのか?」これら答えのない問いかけを通じて、自身の価値観を体系化していくことも立派な哲学だと思います。思考の深さと強さによってきっと、自身の確固たる価値観形成、勇気ある決断を後押ししてくれるでしょう。